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宇喜多堤の歴史「八ヵ郷用水」
宇喜多堤 歴史の小部屋
水を導く「八ヵ郷用水」の開削
宇喜多堤によって拓かれた大地にいかに水を導くのか、この難題に取り組んだのも岡豊前守と千原九右衛門でした。
天正12年(1584)豊前守は当初十二カ郷用水からの取水を計画しましたが、地形上の問題で断念。次に高梁川の水を酒津から直接水を引く計画を立て、その地に水利権を持つ浜村の四郎三郎と交渉を行いました。その結果、四郎三郎が管理する浜村の用水から新たに開削する用水へ分水し、従来の用水は定水川として常時取水する特権を認め、新たな水路は時間配水を行う番水川としました。番水川は倉敷市西岡で山根川、中川、三番川に分かれ、
早島は三番川の最も下流の村
にあたります。
この用水によって、浜村、子位庄村(祐安・西岡)、東阿知村(生坂・西坂)、三田村、西の庄(平田・大島)、五日市村、二日市村、
早島村の8カ村に水が導かれ
、8つの村々を潤すことから
八ヵ郷用水
と呼ばれました。
宇喜多堤と八ヵ郷用水略図
岡豊前守の開削から340余年、八ヵ郷用水はその姿を大きく変えることなく、宇喜多堤によって開かれた大地を潤し続けました。しかしこの間、高梁川は度々洪水を起こし、数度の改修工事も行われてきました。明治44年に行なわれた高梁川堤防改修工事は、西高梁川を閉め切るとともに、酒津地内で東高梁川も閉め切り、新水路を設けて西高梁川に合流させるという壮大なものでした。その結果、東高梁川は廃川となり、新たな配水地と配水樋門が設けられることになりました。これに伴って高梁川東西用水組合が大正5年に設立、これに合わせて八ヵ郷用水の河川改修も行なわれ、大正14年までに全ての工事を完了しました。
その後、昭和18年には、干害対策を目的に三番川の拡張改修が行なわれ、水路を石積護岸のコンクリート底張りにするとともに、流路を早島の宮崎の地先から前潟用水を暗渠で横断し、大川沿いに東南進した後、汐入川を伏越し、三軒地に至るという現在の形へと姿を変えました。
八ヵ郷用水三番川の行方を辿る
高梁川東西用水南配水樋門と北配水樋門(八ヵ郷用水)
大正13年に完成した樋門は、平成15年、国の土木遺産に認定され、
東西用水は平成18年、疎水100選に選ばれた。
水は祐安で定水川(右)と番水川(左)
に分かれる
番水川と水車(祐安)
番水川は西岡で山根川と中川、三番
川に分かれる。
福島から五日市に向う三番川
中帯江から早島へ
汐入川をサイフォンで超え、三軒地で
前潟、沖浜方面に分水する。
こうして早島町が誕生しました。
早島は宇喜多家統治の後、
江戸時代には旗本戸川家の陣屋が置かれ、畳表や金毘羅往来のまち
として、発展を遂げていくことになります。
そして、その歴史は今も脈々と引き継がれています。
最後はおまけの屋根裏部屋
「竹井将監」って誰?!
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