さらに、備中誌には次のような記述が見られます。
窪屋郡巻之壱 『天正十二年、宇喜多秀家の臣岡豊前守、検地して千原九右衛門勝則に 命じて酒津川より下二十余町、今の浜村の辺まで堤を築き関留て開発す』
早島を起点とした宇喜多堤が築堤された同じ時期に、酒津を起点に南に伸びる堤が築堤されていたのです。同じく、三宅千秋はこれを倉敷の宇喜多堤と呼び、酒津を起点に川入の春日神社を経て倉敷臨港鉄道の倉敷駅付近に至り、そこから渋江村と旧倉敷村との境を通り倉敷川に達したと推定しています。この説に従えば、東高梁川の川水や玉島、連島方面からの海水の浸入を防ぐことになります。 そして、この2つの宇喜多堤によって、児島湾、水島灘からの海水の浸入は防がれ、早島・帯江・東阿智にいたる広大な新田が開発されることになったのです。 |