干拓のまち、早島
早島はその名が示すように、かつては瀬戸内の海に浮かぶ島の一つでした。
宇喜多堤

吉備の穴海と呼ばれた早島周辺の海も、高梁川などの運ぶ土砂によって、しだいに干潟化していきました。今から約400年前、このあたりを支配していた戦国大名宇喜多秀家は、この児島の海の干拓を思い立ち、高松城水攻めの堤防築造の指揮者であった岡豊前守勝利と千原民部九右衛門に命じ、汐止めの堤を築かせました。
堤は早島の東端多聞カ鼻から倉敷の向山に至り、そこからさらに酒津に至る大規模なもので「宇喜多堤」と呼ばれました。現在、早島の街中を走る県道倉敷妹尾線はこの堤の跡と言われています。
以後、児島湾の干拓事業は、昭和38年の児島湾締め切堤防の完成まで営々と続き、早島町はその先駆けの町となりました。
前潟の干拓(新田開発)
江戸時代を迎えても、干潟の開発は続き、江戸時代中期の寛文7年(1667)には、早島の庄屋佐藤助左衛門を中心に早島東西の村々が協力して眼前に広がる干潟の開発に取り組みました。
工事はたび重なる堤の決壊や資金不足などのため、度々中断するなど困難をきわめ、最後の汐止めが完成するまでに12年を歳月を費やしました。そして、新たに開かれた約100町歩の大地は、陣屋の前にある干潟を開発したことから前潟新田と名づけられました。
備前・備中国境争論
その後、前潟新田の南に沖新田が宝永4年(1707)に完成しますが、開発はここで大きな問題に直面します。沖新田のさらに南に広がる干潟の開発をめぐり、備前と備中の村々が激しく対立、ついには国境争論に発展し、江戸での訴訟となりました。
新田開発にトラブルはつきものですが、この場合は開発場所の帰属が不明確なうえに、農業用水や排水、漁業権の問題など、児島湾沿岸の村々の利害が複雑に絡み合いあい、享保から文政まで約100年にわたって訴訟が繰り返されました。
その結果、文化13年(1816)最終的な裁定が下され、国境は現在の海岸線とし児島湾一円は備前児島に帰属するものとするが、備中方の権益は備前の許可のもと認められることになりました。そして、この裁定を受けて児島湾内にある問題の干潟は文政6年(1823)備前藩の手で開発され「興除新田」と命名されました。今、町内の下前潟地区にある備前備中国境標石は、この時の裁定によって設置されたものです。
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更新日:2023年03月01日