旗本のまち、早島

更新日:2023年03月01日

江戸時代、二百数十年にわたり早島を治めた旗本戸川家の陣屋のまち。

戸川家

青い背景の前に戦国時代の武士の鎧が飾られている写真

江戸時代、早島を治めたのは旗本の戸川家でした。戸川家の家祖、戸川達安(みちやす)は父秀安の代から宇喜多家の重臣として常山の城を預かっていましたが、お家騒動のため関東に下り、関が原合戦には東軍に加わりました。そして合戦では、敵将石田三成の懐刀と言われた島左近を討ち取ったと伝えられ、その功により備中庭瀬2万9200石の大名として賀陽、都宇の二郡を与えられました。

旗本戸川家六流

その後庭瀬藩を継いだ達安の嫡子正安は、寛永5年(1628)弟の安尤(やすもと)に3400石を安利(やすとし)に3300石を分地し、旗本として早島知行所、帯江知行所をおこさせました。その後も戸川家は分家を繰り返し、庭瀬・撫川・早島・帯江・妹尾・中島の6家となりましたが、本家の庭瀬は絶家したため、撫川の戸川家が名跡を継ぎ4000石を加増され交代寄合に叙せられました。

早島戸川家

寛永5年、早島知行所をおこした安尤は、旗本として江戸木挽町築地に屋敷を拝領し、慶安2年(1649)領主として初めて早島に入りました。元禄6年(1693)二代安明は、陣屋を早島の塩地に定め、17年の歳月をかけ宝永6年(1709)三代安貞の時に完成させました。安貞は日蓮宗への帰依が厚く、本町の妙法寺に自筆の陀羅尼品一巻を奉納しています。また、鶴崎神社には四代安晴が正徳6年(1716)に奉納した江戸上野寛永寺の絵馬が伝わり、九代安悌(やすちか)は文化5年に国鉾神社へ見事な石灯篭を寄進しました。
早島戸川家最後の領主となった13代戸川安宅(やすいえ)は、元治元年(1864)の長州征伐に出兵した後、明治元年には兄に代わり上洛し、朝廷に忠勤を誓い、早島に入部しました。明治7年、安宅はキリスト教に入信、牧師として伝道に従事しました。また明治36年には「文学界」に新体詩『桂川』『明智光秀』を発表するなど、文学にも深い関心を示しました。

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