い草のまち、早島
短いい草を中ほどで継いだ中継表は、「早島表」の名で全国に知られました。
早島のい草のルーツ
早島町は、い草、い製品の町として発展してきましたが、早島でいつからい草が栽培されていたのか定かではありません。しかし、室町時代後期の天文5年(1536)の文書に京都相国寺鹿苑院へ早島から畳表50枚が納められたとあり、当時、すでに早島で盛んにい草や畳表が作られていたことがわかります。
早島表(はやしまおもて)の名声
早島がい草、畳表の全国的な産地として成長していくのは、江戸時代中期のことです。江戸時代中期、干拓で生まれた大地に塩分に強いい草が植えられ、干潟に生える葭草や浜松は、い草の大切な肥料になりました。
そして、この辺りで織られる畳表は、「早島表」の名で大坂や江戸を経由して全国に出荷されました。早島表の名声は江戸の小説家滝沢馬琴の『夢相兵衛胡蝶物語』の一節に「近頃表かえした早島の席薦へ心なく酒をこぼすとき」と記されるほど高まっていました。
また、早島には近江の豪商「大文字屋西川家」の支店が置かれ、手広く商いを行うなど、早島が畳表の流通にとっていかに大きな役割を果たしていたかがわかります。さらに大文字屋の江戸店には、「早島蔵」という名の特別な蔵があったことも知られています。
い草産業の盛衰
明治になり、倉敷市茶屋町の磯崎眠亀が錦莞莚を発明すると、早島、茶屋町を中心に数多くの花ござ工場が設立され、花ござは貴重な輸出品として主にアメリカに輸出されました。
その後も早島はい草い製品の町として栄え、昭和39年にはい草の作付面積、畳表の生産量とも最高を記録しました。しかし、昭和40年代になると人々の生活様式や早島周辺の社会環境も大きく変化し、早島の生産地としての地位は急激に低下していきました。そして、平成12年には早島町のい草栽培面積はゼロとなり、450年のい草栽培の歴史に幕を降ろしました。
しかし、日本固有の生活様式である畳文化を支えてきた誇りは、今も町に引き継がれています。
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更新日:2023年03月01日